鳳蝶の夢籠

オリジナル小説『グリモワール』シリーズを掲載しています。
ダンス・マカーブル 17

「……う……っ」
 身体を起こそうとすると、首のうしろに痛みが走り、呻く。
 くらり、と曖昧な世界がまわって、額に手をやりつつ目眩を振り払うように首を振った。
 その動きにさえ、全身が悲鳴を上げる。
 苦痛に息が詰まった。
 身体が冷え切っている。
 しかし意識は、朦朧としていた。
「目が覚めてしまったようだね」
 静かな声音を注がれて視線だけを動かすと、視界の隅に白を見る。
 法服だ、とそれがなんの色であるのかを覚ったとたん、意識が一気に覚醒した。
 横たわっていたのは、冷たいコンクリートの床だ。
 すぐわきに見える、床からはえている黒く細い数本の鉄棒は、おそらく鉄格子のそれ。
「……教会に、牢獄かよ……」
 皮肉な笑みを浮かべようとして、くちびるが引き攣れた。
 またどこかが切れたのか、血の味が滲む。
 床についた両腕には、鈍い痛みとともに赤黒い痣が巻きついていた。
 それだけではない。痛みは、この身体をコンクリートに縫いつけようとするかのように全身を覆っていた。
 けれど、Jは細長く息を吐き出すと、両手で床を押す。その反動でようやく身体を起こし、顔を上げた。
 鉄格子を挟んだ正面に、見知らぬ男の顔を見る。
 いや。見知って、いるのだろうか。
 知らないはずだ。けれど、なんだ。知らないような気が、しない。
 よくわからなくて、眉を寄せた。
 すると、男はゆったりとした白袖を揺らしつつ、膝に肘をついてしゃがみ込み、
「ここがどこだかわかるかな」
 すっきりと整った顔をやさしげに笑ませる。
 するり、と袖から現れたその手指が、黒い革の手袋で覆われていた。
 それが汚れひとつない白い法服にはひどく不似合いで、同時に、不快でもあった。
 司祭の法服をきたその男は、遠慮もせずにこちらへと黒い手指を伸ばしてくる。Jが身を引いて拒むと、男は笑みを深めた。そして、
「ここはフロストロイド市にあるフィオナ聖教の総本山。その、地下だ」
「……スピネル、ドーム……」
「そう、通称スピネルドーム。セリーヌ大聖堂だ」
 フロストロイド市は、蜥蜴籠街(リザードケージ)があるフラジルフラム市の川を挟んで南にある隣市。治安などに大差はないが、それでも教会の数だけは大聖堂の膝元だけあって、フラジルフラムとは比べ物にならないほど多い。
 異端であると指をさされたならば、逃げ出すことはまず難しいだろう。
「女はどこだ」
 唸るようにJが言うと、くつくつと男は喉の奥で嗤った。
「女とは、『死者の舞踏』のことかな」
「……どこだ」
「さあ、知らないね」
 そんなことはどうでもいい、と放り出すように言って、男は立ち上がり法服の裾を払う。
「燃やされてしまうなら、燃やされてしまえばいい。あんなものに興味など、ない」
 暗い、闇を抱えたような声音で吐き捨てるようにそう言った男は、黒い手指で鉄格子を撫でた。
 ざわり、とそのとたん、肌が粟立つ。
 悪意。
 肌を撫でたそれがなんであるか覚ったと同時に、どろり、と目のまえで熱を加えられた飴のように、黒い鉄が熔け崩れた。
「おまえ……っ」
 熔ける鉄格子をくぐって牢のなかへと入り込んだその男を、Jは瞠った瞳で見つめる。
 この男は。
 司祭などではない。それどころか、

「……魔術士、か」

 魔術士なのか、と口にしたとたん、右の黒い手指に顎を掴まれた。
 首を振ってその手を振り解こうとするが、見かけよりもずっと強い力で捕らえてくる手は解けない。
 そして、息が触れるほど近くで、
「『ドロシー』は気に入ってくれたかな、『ジュード』」
 微笑む。
 しかし、その双眸はひどく冷たい硝子玉。
 じっと見据えられると、その感情のうかがい知れない無機質さに、寒気さえする。
 全身を取り巻く苦痛にわけの知れない不気味さが加わり、嫌な汗が噴き出した。
 乱れた髪が頬に張り付く。
「おまえ、が」
「そう。僕が、だ」
 答える魔術士がそのもう一方の黒い手指で、頬に張り付いた髪を撫でるようにかきやった。
 不快に眉をきつく寄せたJは力の入らない腕で得物を探すが、当然、銃もナイフも教会に取り上げられてありはしない。
 顎を掴む手に力を加えられて、全身の痛みに顔を歪めた。それでも、
「あいつを……どうするつもりだ」
「あいつ? 誰のことだ」
「……『死者の舞踏』」
 『死者の舞踏』をどうするつもりだ、と重ねて問う。
 すると、魔術士は影のなかに顔を伏せ、
「さっきも言ったはずだ。『死者の舞踏』に興味はない、と」
「な……?」
「いや。正確に言うならば、もう興味はない、だ。はじめこそ手に入れるつもりだったが……早い段階から、僕の興味は『死者の舞踏』から逸れていた。それよりも……」
 それよりも、とそう言って、魔術士はゆっくりと影のなかから顔を上げる。
 現れたその、双眸。
 間近に見たその色に、心臓が凍りついた。
「お……まえ……」
 喘ぐ喉から搾り出すように、それだけをようやく口にする。
 見知らぬ男の、

 見知った、顔。

「おまえにこそ、興味がある」
「……っ」
「よくできていただろう。僕がつくった悪夢のなかの……母は」
 黄みの薄い金髪。
 オリーブ色の、瞳。
 目のまえにいたのは、法服の白を纏い、手指を黒に包んだ、

 自分。


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