グリモワール 18
2008/05/10 Sat
そこにあったのは、自分とよく似た顔だった。
鏡は、好きではない。
悪夢に棲む母が鏡の向こう側からこちらを見てほくそ笑んでいるような、そんな気がしてならないから、鏡にうつる自分の顔をじっくり見ようとも思わなかった。
しかし、だからすぐにはわからなかった、というわけでもない。
似たような顔が、そういくつもあるなどとは思っていなかっただけだ。
それに表情のつくりかたも違うし、牢のなかは薄暗い。
だが見れば見るほどに、目のまえの男の顔はあまりにも自分に似ていた。
それは寒気すら、覚えるほど。
まるで、
白い法服を着た、自分。
黒い手袋をした、自分。
そんなものが、うっすらと笑みを浮かべて目のまえにいるようだったのだ。
ざわり、と全身の肌が粟立つ。
「おまえ……」
何者だ、と訊こうとした。
しかし、こちらの顎をきつく掴む相手が静かにオリーブ色の双眸を光らせて、その言葉を遮る。
「何者だ」
逆に問われて、Jは大きく目を瞠った。
「おまえは何者だ、『ジュード』。いったいなぜ、おまえが僕の母を知っている。なぜあの苦痛を知っている」
「な、に」
こちらの瞳を息がかかるほど間近からじっと覗き込み、魔術士は軽く眉をひそめる。
じわり、と湿気を含む冷気が、薄暗い牢のあちらこちらから押し寄せてくるが、両の手で、寒い、と冷えた自身の身体を抱えることもできず、ただ身体と胸のうちが凍えていくのを感じた。
何者だ。
そう問いたいのは、こちらのはず。
それなのに、逆に問われて答えられないのは、なぜだ。
自分はJだ、と。蜥蜴籠街(リザードケージ)の稼ぎ屋Jだ、とそう言おうとするのに、顎を掴んでくる黒い手指が邪魔で、言葉が喉を滑ってこない。
いや。
わからなく、なってきた。
あの母は、化け物を生み出す魔道書『アノニマス』の術者だった。
つまり、あの女は魔術士だ。
そうだとするなら、目のまえにいる自分によく似た魔術士こそ、あの女の息子なのではないだろうか。
しかし、兄弟がいるなど、知らない。この男も、そんなことは聞いていないらしい。
それともあの女は、母ではなかったのか。
けれど、身体に刻み込まれた記憶は、あの女が母だと告げる。
Jが身動きひとつできずにいると、不意に魔術士が乱暴に顎を掴んでいた手を離した。そして、
「おまえは……まるで、悪夢だな」
一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。
なぜそんな言われ方をするのかも、まるでわからなかった。
「本来は僕であるはずだというのに」
「……な、に」
「自覚もしていなければ、理解もしていない」
「なにが、だ」
「目障りだ、と言っている。おまえは存在してはならないものだよ、『ジュード』」
理由の知れない、敵意。
そんなものを向けられて、Jは絶句した。
しかし、
「あのふざけた魔道書もそうだ。力が強大であるとはいえ所有者を自らで選ぶなど、魔道書ごときが傲慢にもほどがある。あんなものはさっさと燃やしてしまうに限る」
その言葉に、凍り付いていた心臓に怒りの炎が灯る。
「……燃やすに限る、だと?」
唸るような声音が震えていたのは、寒いからでもなければ、怯えのためでもない。
「あの女のなにが、おまえにわかる」
「だったら、おまえはわかっているのか。あの傲慢不遜の凶悪なる魔道書のことが」
「俺にわかるかよ」
即答すると、魔術士が呆気にとられたような顔をする。
だが、その隙を見逃さないほどには、Jは意志を取り戻していた。
自分がなんであろうが、相手がなんであろうが、いまはそんなことを気にしている場合ではない。
時間は、おそらくない。
あの女がおとなしく火炙りにされるとも思えないが、それでも別れ際のこともある。
こちらが行ってやらねば、なにをするかわからない。いや、むしろなにもしないだろうから、行ってやるのだ。
だからJは、『ドロシー』の触手にさんざん痛めつけられた痕の残る腕を、まだひどく痺れているその腕を、上げた。
「っ!」
突然のことに魔術士が瞠目するが、遅い。
Jは右手で掴んだ法服の胸倉を引き絞ると同時に、左のこぶしを相手の鳩尾(みぞおち)に叩き込んだ。
「鬱陶しいから、ここで寝ていろ」
急所を打たれて声もなく雪崩れてきたその魔術士の身体を、ついでとばかりにコンクリートの床に叩きつけたJは、全身の痛みに顔をしかめつつも吐き捨てるように言う。そして、ちら、と熔け崩れた鉄格子を見遣り、
「わざわざ出口をどうも」
床に転がる魔術士が纏う法服を、いささか乱暴に剥いだ。
鉄格子は元に戻せないが、牢のなかに『ジュード』がいればさほど問題はない。顔が似ているのだ、これほどうってつけの身代わりはほかにないだろう。
しかし、剥いだ法服を丸めたところで、Jは顔を歪めた。
床の上に落ちた、一冊の書。
なんの革でつくられたかは知れないその表紙には、見覚えがある。
『死者の舞踏』の言葉を借りるのならば、それは、
「……書名も著者の記名もない可哀想な……『アノニマス』」
声に出したとたん、その薄気味の悪い魔道書が震えたようだった。
汚れの染み付いたなかの頁が、かさり、と音を立てる。
確かに、気味が悪い。
だがここに置き去りにすると、目を覚ました魔術士がそれを使ってなにをするか知れたものではない。
しかたなく、Jは一度丸めた法服を再度広げて、それに『アノニマス』を包んだ。
「頼むからおとなしくしていろよ」
溜息混じりに言って、法服を小脇に抱えたJは鉄格子にあいた穴をくぐった。


