鳳蝶の夢籠

オリジナル小説『グリモワール』シリーズを掲載しています。
ダンス・マカーブル 26


 死者を蘇らせる魔道書は、忌まわしき闇。

 そんなものは、焚書にしてしまえ。
 おぞましい闇など、白い炎のなかに消え去ってしまえ。

 そう、言うのならば。
 それならば。
「その力を、生きている女の皮を剥いでまで欲しがるフィオナの手先は……下衆か」
 歯を食いしばると、ぎり、と奥歯が鳴る。
 許せるはずがなかった。
 ゆっくりと、撃鉄を起こす。
 すると、司教が耳障りな悲鳴を上げ、
「頼む、助けてくれ! 金ならいくらでもやるから! 女が欲しいのなら、とっておきの人間の女を寄越す! だ、だから、助けてくれっ! あ、あんなものをどうこうしたところで、おまえが腹を立てることなどあるまいっ? あれはただのひとのかたちをした物ではないかっ!」
 ふぅ、と長く、細く。Jは、息を吐いた。
 限界、だ。
 よりによって、なぜいまその言葉をこの耳に聞かせるのだろうか。
 Jは侮蔑を通り越して、むしろ哀れむような瞳で、這いつくばる司教を見下ろしていた。そして、
「……救いようが、ないな」
 つぶやく。
 だが、その言葉は思いがけず、もうひとつの声音と重なったものとなった。
 もうひとつの、暗い声音。
 はっ、とそちらに瞳をやると、そこに、憎悪に満ちる自分の顔があった。
 とたんに、心臓が厭(いや)な音を立てる。

 殺せ。
 引き裂いて、踏み躙(にじ)ってしまえ。

 そう叫ぶオリーブの双眸が、どす黒い闇に汚れて燃えていた。
 醜い、自分の顔。
 それが、ぬかるんだ地面に近いところで歪んでいる。
 ゆらり、とそれは起き上がった。
「よくも僕をこんな目にあわせてくれたな」
 いや、違う。あれは、自分によく似た魔術士だ。
 頬からひと筋、血が流れている。
 あれは自分が撃った銃弾がかすめた痕。
 だが、そうだとわかっても、Jは一瞬動けなかった。
 それは自分ではないが、自分でもあったから。
 だから、

「『彷徨える魂の歌声』!」

 巻きついていた縄を振り解いた魔術士がそれを口にしても、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
 はじめて耳にするそれを、なんだ、と思うことすら、遅れる。
 そのときだ。
 すい、とすぐわきを、ちいさな影が通り過ぎたのは。
「ここにいるわ、コーダ」
 影が、幼く澄んだ声音で魔術士に答えた。
 漆黒のやわらかそうな髪が、ほっそりとした肩に揺れている。
 ちら、とこちらを見上げるその瞳の色が、光の加減で金にも銀にも見えた。
「おまえ……」
 それは、Jにも覚えのあるものだったのだ。
 『彷徨える魂の歌声』と呼ばれたものは、それは、蜥蜴籠街(リザードケージ)の教会で出会った少女だ。アノニマスに毒された『ドロシー』が教会に現れた際、行くな、とコートの裾を掴んだ少女。
 その少女が、にこ、と愛らしい笑みを白い顔に浮かべる。
 ちいさな指が、気を失ったままの『死者の舞踏』を指差した。
 はやくいって、と。
 ひそやかに、くちびるだけで声には乗せず、そう言う。
「遅いぞ、『彷徨える魂の歌声』。僕がこんな目に遇っているというのに、どこでなにをしていたんだ」
「そんなにおこらないで、コーダ。わたしはまだ子どもよ? がれきの山をひとりで越えるのはたいへんだったんだから」
「言い訳はいい。さっさとここにいる虫けらどもに、おまえの力を思い知らせてやれ」
 ゆっくりと魔術士に歩み寄った少女が、彼を助け起こすためにちいさな肩を貸しながら、それまで愛らしく微笑んでいたくちびるに、にやり、と彼女の容貌には似つかわしくはない禍々しい色を浮かべた。
 Jは、ゆっくりと瞠目する。
 その笑みを、知っていた。
 とたんに、知れる。少女がなんであるのかを。
 同時に、Jは走っていた。
 血の混じった泥を跳ねながら、まず自分が守らなくてはならない者のところへ。
 目を覚まさない女のそばへと滑り込むようにしてたどりつき、ひどく傷つけられた細い腕を庇いながら冷えたその肩を抱えるのと、少女が赤黒い死に染まった大地に足を叩きつけたのが、ほぼ同時。
「さあ、起きて。生者へのうらみを、思うぞんぶん歌うといいわ!」

「『喉(のど)を引き裂き腸(はらわた)を食い破る、残忍なる黒き獣』!」

 なぜ。
 なぜ、その呪文(スペル)を発したのかは、知れない。
 とっさだった。
 ただの稼ぎ屋でしかない自分がその呪文を現出できるかどうかなどとは、そのときは考えていなかった。しかも、その頁は『死者の舞踏』から剥ぎ取られて地面に落ちているものだ。
 だが、それを発しなくてはならない、と思ったのだ。
 そして。
 骨が軋み、肉が拉(ひし)げるおぞましい音とともに、もう一冊の闇の魔道書『彷徨える魂の歌声』の呼び声により、死者たちがまだ息のある者たちへと一斉に襲い掛かった。
 ふたたび沸き起こる、悲鳴と混乱。
 しかし、血と腐肉とを撒き散らしながら生者へと迫る死者を、ぐしゃり、と力強く踏みつけにする黒く巨大な姿も、そこにはあった。
 地を這うような低い咆哮。
 漆黒に燃える炎を思わせる、たてがみ。
 『死者の舞踏』の狼に似た巨大な獣型の呪文が、現出していた。


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